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プロローグ:T中間子について、あるいは紅茶型生命体が紅茶を飲む件
約2,200字
これは、紅茶が宇宙を旅する話である。
もう少し正確に言えば、紅茶型生命体の没落男爵アール・グレイが、自分で作って自分で逃がした素粒子を追いかけて、女王の宇宙船を盗み、時空を超えてあてもなく放浪する物語である(1)。
(1)厳密にはこれは私ことアール・グレイによる手記である。手記であるから主観で書く。
グレート・アフタヌーンティーⅡ 船内ティールーム
記録日時:不明
一、T中間子のこと
ティールームの窓の外は暗かった。宇宙とはそういうものだ。広大で暗くて、ほとんどがなにもない。ティーカップの中の方がずっと充実している。
私は紅茶を淹れた。今日はアッサムだった。テーブルの上に論文の原稿を広げ、表紙を眺める。そこにはこう書いてある。
T中間子の安定存在に関する実験的観察と理論的考察:トップクォークのハドロン化における異常事象の報告
——あるいは、いたのだ(2)
論文はリジェクトされたものだった。
(2)副題は査読で削られる種類のものだが、リジェクトされ、かつ私の任期が消滅したので削る理由はなにもない。残しておく。
紅茶を一口飲んだ。
T中間子というのは、存在が許可されていない粒子だ。
これは比喩ではない。物理的な事実として、トップクォークはペアで生成されてすぐに崩壊する。その寿命はおよそ 5×10⁻²⁵秒——クォーク閉じ込めの時間スケールよりも短い。つまりトップクォークは、中間子を形成する暇がないうちに弱崩壊してしまう。T中間子は理論上存在できない。存在できないのだから、存在しない。物理法則というのは、そういうものだ。
私には温めていたアイデアがあった。飼い犬のビスケットにおやつのクッキーを与えていたとき浮かんだ案だった。——クォーク閉じ込めポテンシャルを局所的に操作して、トップクォークを障壁の向こう——別の物理法則が支配する領域——へトンネル効果によって送り出す。そして戻ってきたところを観測すれば、中間子的な束縛状態を記録できるかもしれないのではないか。
私は、王立超科学研究所の旧型加速器に、実験用の装置を追加した(3)。
(3)王立超科学研究所には任期付職員として雇われていた。別プロジェクトである新型加速器の予算として申請したところなぜか通った。新しく導入された購買システムは経費削減のため相見積もりで一番安いものに変更していたから、おそらくその仕様のためだろう。つまり仕様であるとこのときの私は判断した(4)。
(4)法務部長の見解は私とは違った。
アリス——私が作成に成功したT中間子——は、1ピコ秒だけ、そこにいた(5)。
(5)1ピコ秒というのは、装置が閉じ込めポテンシャルを局所操作しえた時間であり、検出器がシグナルを記録できた時間である。アリスの全寿命ではない。アリスは消滅したわけではない。実験室側から見えた時間だ。私は1ピコ秒のあいだアリスを見た。
「アリス」というのは私がこの粒子に与えた名前だ。特殊なT中間子であるから、固有名が必要だろうと考えたからつけた。
では、アリスは1ピコ秒の観測の後どうなったのか。
1ピコ秒の後、装置は壊れた。非現実的なほどにわかりやすく、部品は飛び散り、煙が立ち上っていた(6)。
(6)コスト削減で警備員が全員契約を打ち切られて誰にも見られることはなく助かった、とその瞬間の私は安堵していた。今の気持ちは若干異なるが、わざわざ書くほどのことでもない。
アリスはいなくなっていた。私は残されたデータを確認し、それをもとに仮説を考えた(7)。
(7)アリスは装置から消えて、戻ってきた。1ピコ秒だけ。——トップクォークの寿命が異なる別の物理法則の宇宙へ遷移し、その物理法則のもとで寿命が書き換わり、こちらに戻ってきた。私のモデルと計算が正しければ、アリスの有効寿命はおよそ 5×10²⁵秒——160京年——であった。現在の宇宙暦はおよそ38億年だが、宇宙の現在の年齢よりも、はるかに長い時間である(8)。
(8)手記なので詳細は省く。もし興味のある読者諸賢がいるならば、王立超科学研究所の図書室を探せば見つかる可能性は高い。論文がリジェクトされた後、コピーを数通、山積みの雑誌の中にねじ込んでおいた。
紅茶を飲んだ。アッサムは相変わらずアッサムだった。この宇宙にはアッサムがアッサムであるという規則と、T中間子が存在しないという規則があり、そのうちの一方だけが私の前で破れた。
アリスは戻ってきた。そしてまた消えた。今度は戻らなかった。
論文のディスカッションの最後で、私はこう締めくくった。
観測データとモデルを整合的に解釈する限り、当該事象は通常の崩壊による消滅と解釈することはむしろ困難である。別物理法則宇宙への遷移という仮説のもとで、当該粒子は追跡対象として残る。
二、紅茶のこと
紅茶が冷めかけていた。
私はそれを飲み干し、新しく淹れた。紅茶型生命体が紅茶を飲む行為は、厳密には何型の摂取に分類されるのか。
窓の外は暗い。ほとんどがなにもない宇宙の中を、私は進んでいる。どこへ向かっているかはまだわからない。物理学者として、証明できないことを断言することを好まない(9)。
(9)ただしアリスについてはこの限りではない。私はあれを見た。あれはいた。
それで十分だ、とは言えない。
しかし今は紅茶がある。
(記録続く)